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栃木ゴールデンブレーブス コラム【第16回】
 

2018年9月9日、栃木ゴールデンブレーブスは、シーズン最終戦を迎えた。「男・村田」とファンに
愛された村田修一選手の現役ラストゲームでもあった。
 

この日、ホームグラウンドの小山市運動公園野球場は一変した。「4番・サード・村田」の最後の
プレーを目に焼き付けようと、朝早くから、徹夜組を含むファンが入場口前に列をなしていた。


愛知からやっていたという巨人のレプリカユニフォームを着こんだ母娘や、この試合だけはどうしても
生で見たかったと生後5か月の我が子を抱いて出産後初めて野球観戦に来たという若い夫婦など、多くの
ファンがそれぞれに村田選手への熱い想いを携えて球場にやってきていた。


球場の周囲には、「村田修一ファイナルロード」をテーマに多くの演出がなされた。目を引いたのは、
村田選手に縁の深い巨人の選手たちから送られたフワラーボード。坂本勇人に始まり阿部慎之介まで、
そうそうたるメンバーの名前がずらり。村田選手を慕う同僚や後輩たちからの、まさに「はなむけ」
だった。


球場には6,000 人を超える観客が詰めかけ、いつもとは全く違う雰囲気の中でプレーボール!

相手は今季1勝しかしていない群馬ダイヤモンドペガサス。今回も圧倒されてしまうのかと思いきや、
この日ばかりはどの選手も村田選手への思いをボールに、バットに込めた。初回から点を取ったり取
られたりで最終回までもつれる展開に。その間村田選手もセンター前にヒット放ち、三遊間の難しい
当たりを華麗にさばくなど観客の期待に応えた。


そして同点で迎えた9回の裏。3番飯原がセンターへはじき返し、4番の登場。誰もが逆転の「一発」
を期待したが、ここで村田選手は1点を取ることを優先し右方向へ。好守に阻まれファーストゴロに
終わったが、最後までチームバッティングに徹した姿に多くの拍手が送られた。


試合後に行われたセレモニー。マウンドに一人立つ村田選手に、横浜時代の監督・大矢明彦さんや、
盟友たち、家族からねぎらいのメッセージが届き、涙をぬぐう場面も度々あった。


そして、とうとう〝二文字〟を言う時が来た。「今日を持って私は現役を」で言葉に詰まり、一瞬下を
向いたが、強い決意を絞り出すように「現役を〝引退〟します」と言いきった。スタンドから「やめな
いで」「戻ってこい」という声が届いたが、本人は「今日、満員の球場で野球ができて幸せだった。何
より家族に感謝。また笑顔でみなさんに会えることを願っている。長い間ご声援ありがとうございました」
と深々と頭を下げた。


家族から花束を受け取ると笑顔の中に大粒の涙が流れた。最後にゆっくりとグラウンドを一周し、超満員
のファンで埋め尽くされたスタンドからの呼びかけに丁寧に応え、鳴りやまない村田コールの中、笑顔で
球場をあとにした。

 
 
 


―栃木での野球を振り返ると…?


BCリーグ、栃木に行くことを決めたとき、はじめは色々と葛藤もありましたが、今は心の底から
栃木に来てよかったと思います。

真剣に野球をする若い選手たちに出会えたし、同じ環境で汗をかきながら色んなことを学びました。
グラウンド整備とか学生の頃は当たり前だったことを(NPBの中で)忘れていて、それを思い出す
ことができてよかった。

一回り以上年下の選手と長距離のバス移動など過酷な経験もできた。話に聞くだけでは何にもわか
らないですから。バスに揺られて栃木と滋賀の往復は、なかなかの経験でしたね(苦笑)今後どう
野球に関わっていくかわかりませんが、この1年が良い1年だったといえるように、今後の人生を
歩んでいきたいです。そして、栃木のファンのみなさんはいつもたくさんの方が応援に来てくれて、
まだプロ(NPB)でやっているんじゃないかと錯覚するくらい熱い応援でした。

 


―栃木での過ごし方。


これまでと同じように野球をして、野球のことを考えた。ただ時間がかなりあったので、ひたすら
本を読みました。

指導していく上での心得の本も読みましたし、英会話スクールにも通ってました。巨人時代に優勝
旅行でハワイに行ったり、自主トレでグアムに行ったりして、息子たちも行くことがあったので、
食事とか買い物の時に話せたらオヤジとしてカッコいいな、と。人生のプラスになるかなと思って
小山駅前のスクールに登録して、練習のあとに半年くらい通いました。野球の後の生活に役に立つと思うし。

実際、(外国人選手の)ジョン(・ソテロプロス)とかルーカス(・ホジョ)と英語で話せるように
なったし、向こうもわざと聞いてくるので、知ってる単語と最低限の文法でやりとりできるようにな
りましたね。

それから、真岡の「まんぷー(一万人プール)」。夏休みで息子たちが来ていたので、休みを使って
いきました。流れるプールで流されながら、周囲の家族に「頑張ってください」ってよく言ってもらい
ました。野球やっている子たちにも声かけらながら、ぐるぐる流されてるっていう状況。面白かったです。

 


―この先は…?


野球が好きですし、いつまでも野球をやっていたいのは山々ですけど、受け止めて前に進まないといけない。
後退することは僕の中にないので、停滞することもしない。前に進むために色んな決断をしてきた。

今までずっとプロ野球でやってきて、FAして、ここに来た。それを否定したくないし、悔いが残っている
こともないし、前に進むための決断だと思ってもらえれば。

先のことはまったく未定。野球に関わっていけたらいいなとは思っていますけどね。今まで経験したことを
伝えることなのか、野球を見て解説するのか、指導をするのか、大きく分けるとこの3つ(講演、解説者、
指導者)だと思うので、どんなお誘いがあるのか。オファーがなければ仕事できないので、声がかかったと
ころと自分のやりたいことが合えばね。家族に迷惑がかからないように、来年は新しい道を探って仕事をしないと。

 


―村田選手にとって野球とは。


野球があったおかげで〝村田修一〟っていう人間を知って頂いて、多くの方が応援してくださった。野球の
おかげでここにいられるので、本当に感謝している。

野球ができる喜び、それを次の世代に伝えていくのも野球に助けられてきた僕の役目だとも思っています。
そういう意味では色んな携わり方があるのではないかと思います。

 


―ファンへのメッセージを。


みなさんの声援のおかげで最後まで元気に野球することができ、本当に幸せでした。これから若い選手が伸び
てくるので、今後のブレーブスにも期待してもらえたら嬉しいです。

どこかでお会いできたらまた応援して頂ければ僕の活力になります。今後とも村田修一をよろしくお願いします。
30年間、ありがとうございました。
 


取材後記

これまでのインタビューで、「自分の正しいと思った道を進む」「ファンのために一本でも多く」「ブレーブスの
ために真摯に野球に取り組む」と度々口にしていた村田選手。これらの言葉すべてをプレーで体現して見せてくれた。

最終戦後、チームメイトはみな涙ぐみ、号泣する若手選手がいたほど。別れを惜しむ選手たちと堅い握手を交わし、〝
コワモテ〟と言われていたなんて信じがたいほど優しい笑顔だった。出し惜しみすることなく野球の知識、情熱を後輩
たちに伝えてくれた。その功績をしっかりと未来へと受け継いでいくことこそが、村田選手の栃木での1年をより輝せる
のだと思う。頑張れ!ブレーブス!ありがとう村田さん!
 
 
 
村田修一
Murata Shuichi

Profile
1980 年12 月28 日、福岡県出身
177cm/92kg、右投/ 右打
横浜ベイスターズ →読売ジャイアンツ→栃木ゴールデンブレーブス
NPB 通算在籍15 年
 
高村麻代
Takamura Mayo

Profile
NHK各局(津→長野→新潟→宇都宮)で、テレビを中心にキャスター・リポーターを勤める。 フリーアナウンサーとして、CRT栃木放送やFMくらら857でパーソナリティを務めるほか、 ブライダルやイベントのMC、ナレーション、地域誌のコラムなども担当。