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2021.05.06

すべての経験は、建築の道へとつながっていた(1)


本澤建築設計事務所のWebサイトをご覧いただきまして、いつもありがとうございます。

代表取締役を務めさせている本澤崇と申します。このたび、私が日々の中で感じていることを「本澤崇の社長通信」として、サイト内に綴っていくこととなりました。

初回は自己紹介を兼ねて、「私が建築の道を志した理由」についてお話しさせていただきます。

本澤建築設計事務所は、私の父で現会長の本澤宗夫が昭和50(1975)年に創業。平成29年(2017)年より私が代表取締役に就任し、現在は設計事務所のほか、デイサービスセンターみやスマイルとステーキレストラン「ベルステーキ江曽島本通り店」の3部門を経営しています。

設計事務所では14名、みやスマイルでは18名、ベルステーキでは5名のスタッフが所属していますが、私が弊社で働き始めた当初は設計部門のみ、7名ほどの会社でした。

今、私が事務所の代表として感じるのは、「過去すべてに無駄なことはひとつもはない」ということです。

すべての経験や生い立ちは、成長するための肥やしであり、その後の人生に必要な教訓であると思うのです。

もちろん人生には苦しいことや悲しいこともあるでしょう。でもその経験をどのように受け止め対処するかで、人生は180度変わって見えてくるものです。


「北の大地で動物と暮らす」ことを夢見て

子供の頃、父に連れられて建築の現場に行くと、たいてい工事関係の方々から「将来の後継者だね」と声をかけられました。決して嫌ではなかったのですが、なんとなく予め人生に規定のレールが敷かれているような感覚があり、心のどこかで反発したい気持ちも芽生えていたように思います。

そんな時、いつも私は、現場の上空に広がる大きな空を見上げていたものです。

小さい頃の僕は無類の動物好きでした。中でも特に犬が大好きで、当時のすべての品種を記憶していたほどです。そんな僕の夢は、いつか広い空の下で大勢の動物に囲まれて暮らしたい、というものでした。


中学生になると、フジテレビのドキュメンタリー番組『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』に感化され、卒業時後は北海道の牧場で働こうと決意します。しかし、母に「せめて高校だけは卒業してほしい」と説得され、夢の実現計画を一時保留にし、地元の高校へ進学します。

振り返れば、あの時高校に行っておいて本当に良かったと、今さらながら感謝しています。

特に入学した作新学院で柔道部に入部したことは、僕の人生の中でも大きな思い出となっています。

作新柔道部は、当時100人もの部員を抱え、全国でも強豪校として名を知られている名門でした。もちろん多くの部員たちは小・中学校時代から柔道の経験を積んだ猛者ぞろい。

そのような環境の中、「初心者」として入部した僕は、当然ながら白帯からのスタートです。ですが作新柔道部は、やる気さえあれば積極的に受け入れてくれる懐の深さがあり、僕は毎日遅くまで稽古に励みました。その努力がみのり、3年の時はサブチームの主将に抜擢されました。ちなみにその年のレギュラーチームは、インターハイ団体で16位の成績を収めています。自分はレギュラーでこそありませんでしたが、今も当時の仲間たちとの繋がりがあります。互いを理解し、尊重し合える仲間がいることは、何ものにも代えがたい大切な財産と言えるでしょう。

また一昨年には、当時の柔道部監督のご子息が経営する接骨院と柔道場を設計監理させて頂いており、仕事の面でも感謝に堪えません。


夢と現実のはざまで


高校卒業後は、持ち越していた夢を叶えるため、私立大学としては日本最大のキャンパスを有する、北海道江別市の酪農学園大学に進学しました。そこで僕は、学生の間で「酪農病」が流行っているという噂を耳にします。どんな恐ろしい病気なのかと恐る恐る尋ねると、「酪農学園には牧場の子女も多く通っている。彼女たちと付き合うと、えてしてそのまま牧場の跡取りになってしまう」という“あるある話”を、病気に例えてものでした。

しかし僕には、いつかは「ムツゴロウ動物王国」の一員となるという壮大な目標がある。そう簡単に「酪農病」にかかるわけにはいかないという、強い意志を持っていました。

ですが実際に大学で動物たちの世話をして行く中で、その夢はまさに夢でしかない、という現実を知ることになったのです。

知れば知るほど、『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』は、有能な番組スタッフたちの手によって作られた夢の楽園に過ぎないと気づかされました。それどころか、24時間365日動物の世話をするような生活では、経済的な自立は難しいという、厳しい現実をも突きつけられたのです。


人生をもう一度設計し直してみた

このまま幼い頃からの夢を追いかけることに不安を感じた僕は、潔く一年で大学を辞めました。ものごとにこだわり過ぎず、柔軟に路線変更できるのが、ある意味で僕の長所なのかもしれません(笑)

「さあ、これから何をするべきか」。そう将来を真剣に考えれば考えるほど、自分の置かれた環境を前向きに受け入れた方が得策だという結論に到達します。心のどこかで避けていた、建築の道がにわかに現実味を帯びはじめました。


とはいえ、父と同じ道に進むのでは面白くない。せっかく学ぶのならば、建物の設計ではなく、もっと大きな街や港湾、幹線道路、橋梁などの設計、つまり「都市計画」の世界に挑んでみたい。そう考えた僕は、浪人として次の1年間を勉強に費やし、国士舘大学の工学部土木工学科を受験しました。そして入学を許されたのです。高校を卒業後、2年の遠回りをしてようやく僕は設計の道のスタートに立ったというわけです…。

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